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【アラベスク】  第9章 蜜蜂



第4節 靄間の光 [4]




 ここで踏ん張らなければ、美鶴は本当に自分の目の前から消えてしまう。

「お前の恋路なんて、滅茶苦茶にしてやる」

 させるものか。
 瑠駆真はギュッと拳を握る。
 小童谷、僕を見縊(みくび)るなよ。





 もう一枚着てくればよかったかな。
 空を見上げながら、美鶴は両手で両肩を抱いた。
 つい先日までは、茹だるような残暑だった。時によってはエアコンを入れたいと思う事もあったが、ここ数日で急に冷え込んだ。もっとも、もう十月だ。これが当たり前なのかもしれない。
 季節の変わり目。寒暖の差があるのは当たり前だが、もうすぐ十月というのに昼間の蒸し暑さ。巷では異常気象だと騒がれている。暑さ寒さの異常は今年に始まった事ではない。ちょっとすごしにくい環境になるとすぐさま騒ぎ立てて地球環境とやらを訴えるのは、もはや時代の慣例か? 少々ウンザリもしてきている。
 もうすぐ日の出だ。家を出る時は靄のかかった心許ない天気だったが、時間が経つにつれて少しずつ晴れてきた。
 霞んだ東の空が明るい。夜を名残惜しむかのような藍色の西空に、白い月。ぼんやりと息を吐く隣で、バサリと鈍い音がした。サラリーマンが読みえたスポーツ誌をゴミ箱に捻じ込む。
 始発を待つ人々。今日は土曜日だから少ないはずなのに、それでも駅のホームにはぞくぞくと人が集まる。
 朝早くからご苦労様。
 辺りを見渡し、吊り下げられた時計を見上げる。
 あと三分。
 今度は線路へ視線を落す。
 この時間なら唐渓の生徒に見られる事もあるまい。自宅謹慎に処せられている美鶴が出歩いていれば、あっと言う間に噂は広まるだろう。
 岐阜へ行こう。
 思い立ったのは唐突。だが、思いつくともうジッとしている事はできなかった。
 肩にかけるのは、スーパーでもらったエコバック。まだ下町のアパート暮らしだった頃に近所で手に入れた。安物だろう。洗ったことなど一度もないのに、すでに色褪せ始めている。
 その中に、二枚の通帳。無用心過ぎるだろうか? だが、気の効いた鞄など持ってはいないし、母の毳々(けばけば)しいハンドバッグなど持ち歩けるはずもない。
 きっと父を知る手掛かりになるはずだ。
 カバンの手提げを握り締める手に力が入る。
 母は長いこと岐阜の繁華街で働いていた。店のママとは古い付き合いだ。今の店を詩織に紹介してくれたのも岐阜の店のママだと聞いた。美鶴も何度か会った事がある。優しくて、よく笑う人だという印象。
 彼女なら、何か知っているかもしれない。
 母と二人、貧しくとも楽しかった毎日。中学二年で一変した。
 現実を知っただけだ。
 美鶴はそう自分に言い聞かせる。
 母の見せる甘い虚実に騙されていただけだ。
 中学までの生活も、唐渓での不当な扱いもなにもかも、自分に与えられる不遇のすべては母が元凶である。そうに違いない。
 抜け出さなければ。
 始発列車が、線路の向こうに姿を現す。
 岐阜へ行こう。
 美鶴は大きく息を吸う。胸に飛び込む空気が清々(すがすが)しい。今日は気持ちよく晴れそうだ。
 清々しい―――
 なんだろう? こんな気持ち、ずっと忘れていたような気がする。
 澤村に振られ、里奈と別れ、唐渓に乗り込んで以来、ずっと澱んでいた胸の内。上を向いて、息を吸って、こんな気持ちになれる日が来るとは思ってもいなかった。
 なぜだろう?
 ポケットの中には薄型の携帯。
 霞流さん。
 電車がホームへ進入する。
 この電車に乗って岐阜へ行き、父の存在を知ったなら、私の生活は変わるだろうか? もう惨めな思いもせず、誰からもバカにされる事もなく、せめて人並みと言える程度ぐらいになら、自分の境遇は改善するだろうか?
 自分の境遇を改善したいと、思っている。
 卑屈に放り投げてしまったはずなのに。所詮自分は笑われ者なのだと、里奈の引き立て役なのだと開き直り、ならば見返してやろうとは思ったが、それでも自分は結局は惨めな存在なのだと言い聞かせていたのに。それなのになぜ今になって、そんな生活から抜け出したいと思ってしまったのだろうか?
 ポケットの中に、忘れられていた携帯。
 忘れられたくない。
 岐阜へ行き、何かが変われば、その時なら自分は何の遠慮もなしに、霞流さんへ電話する事ができるだろうか? 声を聞きたいと思った時に、電話をする事ができるだろうか?
 できるような気がする。
 根拠はない。だが、今ならそんな気がする。
 いや、違う。できるような気がするのではなく、できるように――――― なりたい?


------------ 第9章 蜜蜂 [ 完 ] ------------





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